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2017年5月5日金曜日

第52回 長篠合戦のぼりまつり



愛知県新城市にて

長篠合戦のぼりまつりに参加させていただきました。

鎧仁會としては何回か来ていましたが

今回は前装銃射撃連盟の一員として鉄砲演武を披露させていただきました。

鉄砲演武での参加は初めてだったので少し緊張しました。

事故や怪我がなく終われて、とても楽しむことができました。

今回は開会式から会場内に居たのですが、

地元の小学生が歌う鳥居強右衛門(とりいすねえもん)の歌を初めて聞きました。

正直、鳥肌が立ちました。


数百年も昔に起こった出来事が細かく語り継がれていること、

歌になっているから小学生でも覚えることができる

この先何百年も、この地で鳥居強右衛門は英雄として

語り継がれていくんだろうなと思ったら、鳥肌が立ったのでした。

世界中のいろんな人に「名前は聞いたことある」と言われるより

一部の人たちに「生まれてから死ぬまで」を語り継いでもらえるほうが
価値があるような気がすると考えた1日でした。

何百年経っても語り継がれる男ってかっこいいですよね。



























のぼりまつりの見どころのひとつ

日置流雪荷派についてはこちら

第51回 長篠合戦のぼりまつり


こういうお祭りがずっと残るといいな。



では、また次回‼




2017年5月4日木曜日

しっぺい太郎のお墓


静岡県浜松市天竜区水窪町奥領家


浜松市中心部から車で2時間ほど山奥

長野県との県境にある神社に行ってきました。

磐田市のゆるキャラ「しっぺい」のモデルになった

悉平太郎のお墓があると聞いたからです。















今回はゆるキャラの由来の歴史について書いていきます。


悉平太郎伝説


この説話は、各地で語られているものであるが、その内容は類型的である。

また、早太郎の名は、伝わる地方により異なり、遠江国では悉平太郎(しっぺいたろう)という。
駒ヶ根でも、疾風太郎(しっぷうたろう)という別名が伝わっている。

昔、光前寺に早太郎というたいへん強い山犬が飼われていた。

その頃、遠江の見附村では、毎年田畑が荒らされ、
その被害に困った村人は矢奈比売神社の祭りの夜に村の娘を人身御供として神様に差出し、
これを鎮めていた。

延慶元年(1308年)8月、この地を旅の僧侶が通りかかり、

神様がそんな悪いことをするはずがないと祭りの夜にその正体を確かめると、
現れた怪物が「信州の早太郎おるまいな、早太郎には知られるな」と言いながら娘をさらっていった。
僧侶は、早速信濃へ行き、光前寺で早太郎を探し出し和尚から借受けた。
そして次の祭りの日、早太郎は娘の身代わりとなって怪物(老ヒヒ)と戦い、見事退治した。

戦いで深い傷を負った早太郎は、

光前寺までたどり着くと和尚にひと吠えして息をひきとったと言われている。 
早太郎を借り受けた僧侶は、早太郎の供養のために大般若経を光前寺に奉納した。
これは寺宝として経蔵に保管されている。
また、本堂の横に早太郎の墓がまつられている。

この話は「猿神退治」として、まんが日本昔ばなしの昭和51年7月31日放送分でアニメ化されている。


遠江国見附村は、現在の静岡県磐田市見付である。

この話が縁となり、 1967年(昭和42年)1月12日から駒ヶ根市と磐田市は友好都市関係となっている。


狒狒と戦い傷ついた悉平太郎は光前寺まで辿り着いたとも、

途中の青崩れ峠を越えられず力尽きたとも言われています。

足神神社のすぐそばには悉平太郎のお墓がありました。


かわいいゆるキャラも由来はなかなか深いですね。

みなさんは地元のゆるキャラの由来を知っていますか。
調べてみると愛着がわくかもしれませんね。


では、また次回‼






遠江最北端の山城 高根城



静岡県浜松市水窪の山奥

高根城に行ってきました。

標高500M弱の山城。というより砦でした。

想像していたよりしっかりとつくられていてびっくりしました。
あと、大河ドラマの影響かそこそこ人がいました。




































高根城に来たいと思って早3年

ついに念願が叶いました。
付き合ってくれたおじさんたちに感謝です。
下山してきて膝が笑っていました。大笑いでした。



城の歴史


高根城、別名:九頭郷城(くずごうじょう)が築かれたのは

15世紀前半であると判明しています。
城主は地元の国人領主、奥山氏でした。
永正年間および大永年間(1521~1528)遠江・駿河を支配していた
今川氏から土地の支配を認められていました。

奥山氏による北遠江支配は、今川氏没落後

武田信玄、徳川家康の力が強まった頃に大きく変わりました。

奥山氏は永禄12年(1569)には

今川氏真、徳川家康という敵対している両者から
領地を認める同じ内容の書付を、
さらに元亀3年(1572)には武田信玄からも
同様の承認を得ていました。

おそらくこの頃奥山氏内部で、

今川・徳川・武田のどこに属するか内部分裂が起きています。

この分裂の際、奥山氏の惣領家が滅亡し

武田信玄へ味方することになりました。

元亀3年(1572)の信玄による遠江侵攻戦の前には

武田方の兵力が駐屯することが可能な番城となっていました。

現在見られる城郭は

元亀元年から天正4年(1570~1576)の間に
武田軍の手によって大きく改修を受けた姿になっています。

信玄の跡を継いだ勝頼は、

天正3年(1575)の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れ、自害。
勝った徳川は武田軍を追い出すために
盛んに戦を仕掛けていきました。

武田軍は、二俣城を取り返され、

やがて犬居城も奪われてしまいました。

武田軍が遠江から信濃へ追い返されると、

やがて高根城は廃城になりました。


いやー、高根城の歴史って本当に良いものですねぇ


どの大名の下で働くか、決断を誤ると大変なことに、、、

どの選択も命がけで心休まらなかったことでしょう。

現代人は何かを間違えても命までは取られない。

失敗を恐れずに何でも挑戦しよう!


では、また次回‼






2017年5月3日水曜日

掛川城お持て成し 2017



静岡県掛川市にある掛川城に出陣しました。


遠州鎧仁會は5月3日に浜松城へ行くことが例年でしたが、

本年は掛川城への出陣となりました。

鎧仁會を楽しみにしていてくださった方々、申し訳ありませんでした。

来年はどちらに出陣するか未定となります。



















掛川城への出陣は僕は二度目になります。

天守も立派だし敷地も広くて見どころ満載です。
何回見ても飽きません。


最近では大河ドラマで井伊直親(三浦春馬さん)が駿府城へ向かう途中

ここ、掛川城主だった朝比奈泰朝により殺害されていますね。
全国の春馬さんファンにとっては因縁のある場所でしょうか。笑

直親は当時27歳だったとされています。当主としても若すぎますね。

僕も今年で27歳になりますが、当主という重荷を背負って生きていく自信はないです。
時代が時代とはいえ、なかなか厳しい環境だったことでしょう。


さて、たくさんの方に来城いただき、楽しい時間を過ごすことができました。

また、募金にご協力頂きありがとうございました。
必ず送り届けます!!

皆さんのご理解ご協力のもと、鎧仁會は活動を続けることができます。

これからも応援よろしくお願い致します。



































掛川城について


掛川城は戦国時代には東海道を扼する遠江国東部の中心であり、

拠点として掛川はしばしば争奪戦の舞台となった。
朝比奈氏によって逆川の北沿岸にある龍頭山に築かれたとされ、
現在見られる城郭の構造の基本的な部分は、
安土桃山時代に同地に入封した山内一豊によるものである。

本丸を中心に、西に搦手、南東に大手を開き、

北に天守曲輪である天守丸、その北に竹之丸、南に松尾曲輪、
西に中の丸、東に二ノ丸と三ノ丸、その南を惣構えで囲んだ梯郭式の平山城であった。
明治以降は、廃城令によって廃城処分とされ建物の一部を残して撤去され、
道路や庁舎の建設によって大半の遺構が撤去されている。
現在は、1854年に倒壊した天守や大手門などの一部の建物、塀が復元され、
堀や土塁、石塁の復元が行われている。

戦国時代の掛川城


室町時代中期の文明(1469年 - 1487年)年間に守護大名・今川義忠が、

重臣の朝比奈泰煕に命じて築城したと伝えられている。

そのまま朝比奈氏が城代を務め、

泰煕の子孫である朝比奈泰能・朝比奈泰朝が代々城を預かった。
ところが、1568年(永禄11年)、朝比奈氏の主家の今川氏が
甲斐国の武田信玄・三河国の徳川家康の両大名から挟み撃ちに遭い、
当主の今川氏真は本拠地たる駿府館を捨てて、朝比奈泰朝のいる掛川城に逃げ延びた。
このため、掛川城は徳川勢の包囲に遭うが、泰朝は城を守ってなかなか落城しなかった。
しかし、多勢に無勢もあり、和議で主君氏真の身の無事を家康に認めさせると、泰朝は開城を決断した。

氏真と泰朝は1569年2月8日(永禄12年1月23日)に掛川城を開き、

相模国の小田原城へ退去し、掛川城には城代として家康の重臣・石川家成・康通親子が入った。
間もなく駿河国に入った武田信玄が徳川家康と敵対し、
掛川城に程近い牧之原台地に諏訪原城を築き、
さらに掛川城の南方にある高天神城では武田・徳川両氏の激しい攻防戦の舞台となった。
しかし掛川城は1582年(天正10年)の武田氏の滅亡まで徳川氏の領有であり続けた。

山内一豊時代


その後も掛川城は石川氏が城代を務めたが、

1590年(天正18年)に家康が東海から関東に移封されると、
掛川城には豊臣秀吉の直臣であった山内一豊が5万1千石(のち5万9千石)で入った。
一豊は掛川城の大幅な拡張を実施し、
石垣・瓦葺の建築物・天守など近世城郭としての体裁を整えた城郭とした。


現在の掛川城の天守は高知城を参考にしています。



いやー、掛川城の歴史って本当に良いものですねぇ


400年以上経っても起源が語り継がれている。

形として残っている。素晴らしいことですね。

では、また次回‼