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2016年3月27日日曜日

高天神城例大祭 2016


今日は静岡県掛川市にある高天神城(たかてんじんじょう)へ行ってきました。

目的は高天神城砲術演武大会です。
大会といっても技術を競う大会ではなく。火縄銃の空砲射撃というパフォーマンスです。




鉄砲の演武は昨年11月の信長公黄葉まつりぶりなので緊張しました笑


まずは安全祈願のため高天神社へお参りに向かいます。

麓の整備されている区画には的屋が並んでおり、地元の方々で賑わっていました。





山道入口の石碑からは土の道や石畳、石段に変わり、一気に雰囲気が変わります。





神社に向かう途中の井戸曲輪にある尾白稲荷大神にて




上り坂と階段がきつくて、

神社に着くころには会員の口数もかなり減っていました笑






当日は天候に恵まれ、良い環境で演武をすることができました。

失敗もなくて満足です。



風が強かったので、円陣を組んで火縄に火を付けています。











完全にどや顔ですね笑


演武終了後には見に来てくださったお客さん方と記念撮影をしました。

もちろん鎧仁會もお持て成しで参加してくれました。








以下、高天神城の歴史について少し書きます。



高天神城:別名 鶴舞城

優美な山の形からそう呼ばれております。国の史跡にも指定されています。

高天神城といえば、徳川家康と武田勝頼の激しい攻防戦が有名ですが、

歴史をもう少し遡ってみますと今川家も関係しているのがわかります。

あまり詳細な資料が残っていないようなので、あくまで一説として記載します。


今川氏親の代では、今川家家臣の福島正成(くしままさしげ)が

遠江土方城(高天神城)城主だったといわれております。
官位は兵庫介、上総介ともされていますが明確ではありません。
姓は読み方にもあるように「九島」「久島」「櫛間」とも表記されています。

正成は大永年間の甲斐での戦いに敗れたのち、今川氏輝の代まで生き延びましたが、

長男氏輝と二男彦五郎が同日に死ぬという事件の後に発生した家督争い「花倉の乱」で、
氏親の側室である福島氏を母とする三男「玄広恵探」を支持しました。
結果、五男義元が勝利し、福島氏が滅亡させられた際に国を追われ、
逃亡先の甲斐で武田信虎に討たれたとされています。

その後は今川氏に服従した在地の土豪「小笠原氏」が城代となりましたが、

義元が桶狭間で敗れると徳川家の家臣となりました。

ここからは徳川、武田の激しい攻防です。

第一次高天神城の戦いで勝利した武田は旧今川家臣「岡部元信」を城代としました。
岡部元信は桶狭間の戦いのあと義元の首を織田から取り返すまで戦った人です。

しかし、第二次高天神の戦いで岡部元信以下そのほとんどが討死して敗れてしまいます。

わずかに生き残った城兵は助命されましたが、
武者奉行の旧今川家臣「孕石元泰」だけは切腹をさせられました。
これは家康が今川家の人質時代、
孕石が人質だった彼に辛く当たったことを遺恨に思ってのことだといわれています。

第二次高天神城の戦いの後は廃城となり、その後も城郭として整備されることはありませんでしたが、

城の山頂に高天神社があったため、山自体は地元のシンボル的な存在としての役割を継続することとなったようです。




徳川も岡部も孕石ももとは今川の家臣。

知り合い同士で戦うのは酷いと思いました。

生き残るために誰を仲間に選ぶべきか、そんなこと今の時代では考える必要もありません。

高天神城の歴史を調べてそう感じました。



いやー、高天神城の歴史って本当に良いものですね。


僕も自分の人生をかけて人付き合いをしていこうと思います。


では、また次回‼



2016年3月21日月曜日

清見寺と雪斎さんと竹千代くん


今日は清見寺(せいけんじ)に行ってきました。

場所は静岡市清水区興津清見寺町418-1、JR東海道本線興津駅から徒歩約15分で行けます。
駐車場も数台分あるので車でも行けます。





なぜ今回清見寺に行ったかというと、

前回行った善徳寺について調べていると、清見寺も雪斎が深く関係していることがわかりました。
今川義元の菩提寺である「臨済寺」や三国同盟の舞台となった「善徳寺」。
その二ヵ所をご存じの方はいらっしゃるとは思いますが、
「清見寺」と雪斎や義元の関係を知っている方がいたらかなりマニアックですよ。

実は清見寺、今川家の人質時代の徳川家康(当時は竹千代)が、

雪斎に教育を受けていた場所なんです‼
臨済寺でも教育を受けていたとされていますが、清見寺でも勉強していたんですね。
ということは、雪斎と竹千代はずっと行動を共にしていたのでしょうか。
当時雪斎は善徳寺やら臨済寺やら清見寺やら
その他義元の補佐で大忙しだったと思うので、、、
座学だけでなく、師匠の実際の働きぶりを見ていたから、
江戸時代という日本最長の平和時代の礎が築けたのかもしれませんね。



「手習いの間」として紹介されていました。


個人の勝手な想像ですが、最初は小さな寺だと思っていました。

でも実際は敷地も建屋も広かったです。びっくりしました。
山側の庭は綺麗な庭園になっていました。









血天井:大玄関の天井板は清見関の古材を使用したもので、

当時の戦での血痕や馬の蹄の痕が残っています。







厠を再現してある部屋もありました。(実際には使用できません)








さらには、秀吉が韮山城攻めの際に使用したとされる鐘が鐘楼となっていました。



いろいろ書きたいのですが、、、

実際に見に行ってほしいのであまり書かないようにします。

距離が遠くて行けない方やどうしても詳しく知りたい方は

公式ホームページもあるので見てみてください。
清見寺」で検索すれば一番上に出てきますよ。



いやー、清見寺の歴史って本当に良いものですね。


僕も雪斎の英才教育を受けてみたかったです。


では、また次回‼



2016年3月6日日曜日

善徳寺まつり


以前見学をさせていただいた善徳寺公園にてお祭りが催されました。

「善徳寺まつり」
地区の小さなお祭りでしたが、老若男女みんなで和気あいあいと活気に溢れていました。



会場にはステージも設置され小学生のチア団体の演技や奥様方の踊りが披露されていました。

現在は行っていませんが、以前は小学生たちによる善徳寺の会談にまつわる劇もやっていたそうです。
是非復活していただきたいです。
鎧仁會でもなにかお手伝いができるかもしれません。

会場の一部には地元小学生によって書かれた習字も展示されています。




やはり地元の歴史まつりなだけあって、勉強をしているのでしょうか。

歴史的にも価値のある場所ですので、地元の歴史だからただ勉強するのではなく
その偉業、魅力、価値を全国に発信するために深く追及してほしいと思いました。



お茶も頂きました。

梅の花を見ながらのお茶は風情があり、非現実てきな時間に浸れます。
お茶菓子もとてもおいしかったです。

運営スタッフはほぼボランティアの方だそうです。

お祭りの雰囲気や規模をみていると昔の信長公黄葉まつりの印象と重なります。

ということはまだまだ発展する余地があるということです。

黄葉祭りもそうですが、善徳寺には全国に発信できるだけの歴史的価値があります。
それは信長公の首塚よりも決定的です。
せっかくの武器があるのでそれを使わない手はありません。

僕が個人的に今川贔屓なので熱くなっているだけかもしれませんが、

いつか全国で知らない人がいないくらいの場所にしたいと野望を抱えています。

来年の開催にはどのような形で参加しているかわかりませんが

どんな形の参加になっても大丈夫なように個人のスキルアップを頑張ります。


いやー、善徳寺の歴史って本当に良いものですね。


来年までに今川義元を極めます。


では、また次回‼