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2017年5月3日水曜日

掛川城お持て成し 2017



静岡県掛川市にある掛川城に出陣しました。


遠州鎧仁會は5月3日に浜松城へ行くことが例年でしたが、

本年は掛川城への出陣となりました。

鎧仁會を楽しみにしていてくださった方々、申し訳ありませんでした。

来年はどちらに出陣するか未定となります。



















掛川城への出陣は僕は二度目になります。

天守も立派だし敷地も広くて見どころ満載です。
何回見ても飽きません。


最近では大河ドラマで井伊直親(三浦春馬さん)が駿府城へ向かう途中

ここ、掛川城主だった朝比奈泰朝により殺害されていますね。
全国の春馬さんファンにとっては因縁のある場所でしょうか。笑

直親は当時27歳だったとされています。当主としても若すぎますね。

僕も今年で27歳になりますが、当主という重荷を背負って生きていく自信はないです。
時代が時代とはいえ、なかなか厳しい環境だったことでしょう。


さて、たくさんの方に来城いただき、楽しい時間を過ごすことができました。

また、募金にご協力頂きありがとうございました。
必ず送り届けます!!

皆さんのご理解ご協力のもと、鎧仁會は活動を続けることができます。

これからも応援よろしくお願い致します。



































掛川城について


掛川城は戦国時代には東海道を扼する遠江国東部の中心であり、

拠点として掛川はしばしば争奪戦の舞台となった。
朝比奈氏によって逆川の北沿岸にある龍頭山に築かれたとされ、
現在見られる城郭の構造の基本的な部分は、
安土桃山時代に同地に入封した山内一豊によるものである。

本丸を中心に、西に搦手、南東に大手を開き、

北に天守曲輪である天守丸、その北に竹之丸、南に松尾曲輪、
西に中の丸、東に二ノ丸と三ノ丸、その南を惣構えで囲んだ梯郭式の平山城であった。
明治以降は、廃城令によって廃城処分とされ建物の一部を残して撤去され、
道路や庁舎の建設によって大半の遺構が撤去されている。
現在は、1854年に倒壊した天守や大手門などの一部の建物、塀が復元され、
堀や土塁、石塁の復元が行われている。

戦国時代の掛川城


室町時代中期の文明(1469年 - 1487年)年間に守護大名・今川義忠が、

重臣の朝比奈泰煕に命じて築城したと伝えられている。

そのまま朝比奈氏が城代を務め、

泰煕の子孫である朝比奈泰能・朝比奈泰朝が代々城を預かった。
ところが、1568年(永禄11年)、朝比奈氏の主家の今川氏が
甲斐国の武田信玄・三河国の徳川家康の両大名から挟み撃ちに遭い、
当主の今川氏真は本拠地たる駿府館を捨てて、朝比奈泰朝のいる掛川城に逃げ延びた。
このため、掛川城は徳川勢の包囲に遭うが、泰朝は城を守ってなかなか落城しなかった。
しかし、多勢に無勢もあり、和議で主君氏真の身の無事を家康に認めさせると、泰朝は開城を決断した。

氏真と泰朝は1569年2月8日(永禄12年1月23日)に掛川城を開き、

相模国の小田原城へ退去し、掛川城には城代として家康の重臣・石川家成・康通親子が入った。
間もなく駿河国に入った武田信玄が徳川家康と敵対し、
掛川城に程近い牧之原台地に諏訪原城を築き、
さらに掛川城の南方にある高天神城では武田・徳川両氏の激しい攻防戦の舞台となった。
しかし掛川城は1582年(天正10年)の武田氏の滅亡まで徳川氏の領有であり続けた。

山内一豊時代


その後も掛川城は石川氏が城代を務めたが、

1590年(天正18年)に家康が東海から関東に移封されると、
掛川城には豊臣秀吉の直臣であった山内一豊が5万1千石(のち5万9千石)で入った。
一豊は掛川城の大幅な拡張を実施し、
石垣・瓦葺の建築物・天守など近世城郭としての体裁を整えた城郭とした。


現在の掛川城の天守は高知城を参考にしています。



いやー、掛川城の歴史って本当に良いものですねぇ


400年以上経っても起源が語り継がれている。

形として残っている。素晴らしいことですね。

では、また次回‼








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